30周年おめでとうございます。
新沢・中川:
ありがとうございます。
今日は、30年を振り返る思い出や出来事を話していただきたいと思います。
最初に、お二人の出会いについてお話いただけますでしょうか。
(中略)※CDブックレットの続き。
新沢
:
千早こどもの家保育園では、とんぼさんと中川さんが卒園児に一人一人歌を作る活動をしていました。それで、作曲家を3人にしようと、中川さん、盲目のピアニスト島筒ひでおさん、ぼくとでそれを担当することになり、ゼミのようにとんぼさんの家に毎月一回集まって作品作りをするようになりました。その頃中川さんの「おーいかばくん」がシングルリリースされて、とんぼ先生の家のステレオでみんなで聞いたよね。
中川
:
4月にオンエアされて、秋にレコードが出たんだよ。
新沢
:
中川さんは、ぼくが生まれて初めて会ってお話ができたプロの人でした。その頃中川さんはいろんな活動をしていて、自分でレーベルやカセットを作っていて。「あそびうたがいっぱい」の自主制作のカセットとかね。
中川
:
それがキングレコードの特販パックでした(笑)
新沢
:
そのうち第二弾を、とんぼさんと島筒さんで「あそびうたのひろば」を作ることになり、その時に「ちょっと歌ってみて」とぼくが参加することになりました。
中川
:
第三弾は、ぼくが音楽ディレクターで、とんぼさんと新沢くんのアルバムを作ることになりました。
新沢
:
打ち合わせは、代々木公園の草の上でだったよね(笑)。
中川
:
新沢は大学4年生、中川31才の頃です。
新沢
:
中川さんはフリーの音楽家で、ぼくにとって輝くような人でした。そして、「新沢、おまえは何がやりたいんだ」っていうようなことを聞いてくれたの。「何を一番やっていきたいと思っているんだ」って。そこで「ぼくは詞が書きたいんです」って答えて。そしたら中川さんが「詩人の詩か、歌の詞か」って聞くから「ぼくは作詞家になりたい」と答えました。
そのあと、中川さんは犬飼聖二さんの影絵劇団「ふざけんぼ」でも活動をしていたんだけど、そこにぼくも弟子入りして、仕事で忙しくなった中川さんの代わりに歌のお兄さんみたいなことをやっていました。
そのうち、中川さんが季刊あそびうたの企画をして「雑誌を作ろう!」と言いだしてね。
中川
:
みんなあそび歌を作っていたけど、発表の場がなかったんだよね。で、編集をやる暇な人間はいないか、ということで大学を出たばかりの新沢くんが編集長になったわけ。
新沢
:
そこではとんぼさん、犬飼さん、島筒さん、福尾野歩さん、柴田愛子さんたちが執筆をしました。後に藤本ともひこくんも入って一緒に絵を描いたりね。
(中略)※CDブックレットの続き。
お二人がめざした歌作りはどんなものだったのでしょうか?
中川
:
子どもたちから大人まで歌える新しいこどもの歌を作りたいと思っていてね。メリー・ポピンズやサウンド・オブ・ミュージックのような。「目指すはシャーマン兄弟!」って、二人の「子どもの歌感」が一致していたのはよかったね。
新沢
:
ぼくたちはエバー・グリーンのような歌を作ろうと思っていました。日本だと永六輔さんや中村八大さんのようにね。それまでの子どもの歌は、30年代に新しい童謡が生まれて、当時はとてもモダンな歌だったと思うけど、その後ポップスにはなっていかなかった。そこに中川さんが、子どもの歌にポップスを入れてきたんだと思います。
80年代は「ひらけ!ポンキッキ」など、新しい感覚の子どもの歌もたくさん生まれていますが、今もずっと歌われている歌というのは少ないですね。
中川
:
当時ロックな歌なんかもあったけど、映像と一緒になって楽しい歌というか、子どもが毎日歌う歌ではなかったのかもね。ぼくたちは「子どもも大人も歌える歌で、教科書っぽくないもの」を目指したわけだけど、当時は異色だったようでなかなか受け入れられなかった。「世界中のこどもたちが」や「はじめの一歩」はテレビ局にももち込んだけど採用されなかったんだよね。 その頃「みんなのうた」で、いろいろなヒット曲がでていたけど、どちらかというと小学生向けの曲で、幼児の歌はなかった。で、ぼくたちの歌は「幼児向けにしては大人っぽすぎる」と言われたの。
新沢
:
ところが、現場の子どもたちがぼくたちの歌をどんどん歌ってくれた。子どもたちが選んでくれたんだよね。また、音楽広場の掲載と、中川さんのバンド「トラや帽子店」が結成されたのが同じ時だった、というのも大きかったです。
中川
:
クレヨンハウスでは、マンスリーコンサートというのをやっていて、毎月、新しい曲を3つ作って歌ってました。新沢くんとぼくの歌、福尾くんの遊び歌、増田裕子のパネルシアターね。そして毎月のレパートリーが増えて、評判のよい曲はトラやのコンサートでもくりかえし歌うことで全国に広がっていったの。 例えば、「世界中のこどもたち」がは毎回アンコールで歌ったし、トラやのコンサートに新沢くんがいる時は「はじめの一歩」を歌ったりね。
音楽広場の1年間の連載が終わると1つのカセットがでる、ということが8年続いた。その後2年休んで、やっぱり一緒にやろう、ということでその後7年続いたんだよ。同じ企画で15年続くことってなかなかないらしいね。
1986年11月
「音楽広場」創刊
1987年 1月
トラや帽子店結成。
1987年4月号
新沢&中川ソング連載スタート(1994年まで)
1996年
音楽広場改め「クーヨン」に再連載スタート(2003年まで)
新沢
:
実は「にじ」も最初は違うメロディーがついていたんだよ。
音楽広場の6月号で、「にじ」と「きょうのできごと」という詞を書いたら、中川さんが2つとも曲を作ってくれたんだけど、クレヨンハウスの編集担当者が「にじ」より「きょうのできごと」を採用にしたの。そうしたら、中川さんがすぐに違う曲を書いてきた(笑)。それが今の「にじ」なんだけど、すばらしいメロディーでね。ダメだししてくれた編集さんに感謝しないと(笑)。
中川
:
中川:なんで落ちたのだろうと考えたのかな。どちらの詞にも「くしゃみ」という言葉があったんだ。「くしゃみならこっちね」って「きょうのできごと」が採用されたのだけど、もう一回読み直してみたら、「にじ」は「こういう曲調じゃないな」と思った。
新沢
:
最初の「にじ」は、はずんだ楽しいメロディーだったからね(笑)
中川
:
「くしゃみ」ってユーモラスな感じがあったからそれにひっぱられたんだよね。でも、この曲はバラードだなと思った。で、「にじ」が生まれ変わった時に「ああ!こっちだ」と思った。いい曲だったから。
(中略)※CDブックレットの続き。
電話でお二人が"電話おくり“をしている姿を見てみたいです。
中川
:
新沢くんは、かならずほめてくれるんだよ。電話でね。「いいんじゃないですか」「すごくいいですよ」ってね。
新沢
:
中川さんは電話をかけてきて、「できたよ、いくよ」って言うの。
そして中川さんが、受話器をおいてギターでメロディーを弾く。その曲は世界で一番先にぼくが聞くんだよ。すごいことでしょ。
中川
:
それはぼくも同じだよ。だって世界で一番最初のリスナーだから。
その人に喜んでもらいたいという気持ちで作る、そういう気持ちって、共同作業においてとっても重要なこと。だから続けられたんだな。
新沢
:
中川ひろたかさんの曲は、メロディーに力があるの。歌いやすいのに平凡じゃない。こんな直球で力強いメロディーを書く人はいないとぼくは思っています。ちゃんと投げられる・・・直球をちゃんとストライクで投げられる人ってなかなかいない。
中川
:
ぼくたちの歌は、奇をてらっているものはないの。ちゃんとした道、普遍的なところで作品を作っていないと作品は残っていかないと思っている。みんなが歌いやすい歌詞や、覚えやすいメロディーを意識して、つまり「ポップス」のもとのところを大事にしたきたから、30年もの長い間、ずっとみんなが歌い続けてくれたのかな、と思うよ。
(後略)※CDブックレットに続く。